竹鶴リタ物語9 リタの愛しき思い出

リタの愛しき思い出 IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETURU

 来日後もリタは、スコットランドに似た大好きな余市で、スキー、乗馬、テニス、フィッシング等を活発に楽しみました。

そのリタも、健康を害してからは家に閉じこもりがちでした。しかし、どんなときでも時計が3時を告げると背筋を伸ばしてお茶の用意に立ち上がりました。ティータイムを大切にする英国人の血というのか、お茶だけは自分で用意しなければ気が済まなかったのです。

 ルーシーの帰国からほどなく、もう一人の妹エラから小包が届きました。反対を押し切って政孝と結婚して以来、ただ一人祝福してくれたルーシーと、後に和解できた母との文通は欠かしませんでした。しかし他の妹弟からはまったく音沙汰がなかったのです。

40年ぶりに見るエラの筆跡…。その日リタは贈られたハンカチーフとエラの手紙をもって自室にこもったまま、夕食の時間になっても姿を現しませんでした。

1961年(昭和36)、政孝に看取られながらリタは永眠しました。

「リタは幸せだっただろうか」…

 

 

  冷たくなったリタの脇で、竹鶴は自問しました。

考えてみればリタは日本のウヰスキーと結婚したようなものでした。 「英国留学中に私と結婚し、はるばる未知の国日本までやって来て、私より若いのに、先だった妻の運命が可哀想でならなかった。もし私とではなしに、英国人と結婚して英国で暮らしていたら、リタの妹たちのようにまだ生きていたのではないか、という思いが私の胸を締め付けた。
しかし、妻のリタほど日本人になりきった外国人も少ないと思う。日本料理も得意であったし、漬物づくりは嫁に教えるほどの腕前でさえあった。長く日本に住んでいたためか、考え方も日本人的であった。」

 

 

 政孝はスコットランドの気候風土によく似ていて、リタが日本で暮らした中で最も愛し、長く暮らした余市の町とディスティラリーが見下ろせる丘に葬りました。

墓石にはいつまでも一緒にいられるようにと、自分の名前も刻ませました。「竹鶴政孝 竹鶴リタの墓」の日本字とともに

「IN LOVING MEMORY OF RITA TAKETURU BORN 14th DEC 1896 DIED 17th JAN 1961」と記しました。

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