「わたしはおばあちゃん」

‘Grandma’ Rita – Twilight Years

taketuru_rita2 1941(昭和16)年12月、日本は太平洋戦争に突入しました。英国人のリタにとってつらい日々が始まります。敵国人として烙印を押され、外出のたびに特高の尾行が付き、町の人たちにも公然と侮辱された。 めったに愚痴をこぼさないリタも、涙ながらに竹鶴につらさを訴えました。「リタ、君が悪いわけではない。こんなに醜い時代がそうそう続くわけはない。頑張るんだ。」
こういって竹鶴はリタを励ましました。自分にできることは、これまで以上にリタをしっかり愛することだ、と竹鶴は信じていました。

◇ ◇ ◇

戦争が終わりました。空襲にも合わずに原酒は無事に生き延び、9年を経ていました。
リタはお嫁さんが来るまで誰にも料理を任せませんでした。そのためリタの手は荒れが治まることがありませんでした。「歌子さん、私の手、荒れていて恥ずかしい。」リタはこういって笑いましたが、それはもしかするとリタのプライドであったかも知れません。 1953年には養子の威夫妻に長男が生まれ、続いて長女が生まれ、竹鶴家は次々に家族が増えました。

 子供好きのリタさんは、しつけにも厳しかったといいます。「パパ、ママと呼んではいけません。日本語でお父さん、お母さんです。いいですね。」 孫達が小学生になろうという1959年(昭和34年)、何十年も会うことのなかった妹のルーシーが来日しました。当時、彼女は家族の中でただ一人姉の結婚を祝福してくれたのでした。60歳を前後して健康を損ねがちのリタに竹鶴は、この機に一緒に一時帰郷をすすめました。しかしリタは「わたしの飛行機嫌いをご存じなくて?」来日以来40年。今ではすっかり竹鶴リタという日本人より古風な日本人になりきっていました。

また、一度流産してから子供のできなかったリタさんが、叔母の遺産を兄弟で受け継いだ時、寄付した幼稚園は、現在でもリタ幼稚園といいます。2002年、余市町はリタさんの故郷スコットランドのイースト・ダンバートンシャイア市(旧ストラスケルビン市)と姉妹都市の提携を結んだ5周年の記念として、JR余市駅からニッカウヰスキー北海道工場、リタ幼稚園、リタ教会、毛利宇宙記念館、余市町役場までの国道229号をリタロードと名付けられ、余市の人々に親しまれています。

知る・楽しむ

コメントを残す