竹鶴リタ物語6 夢の地を求めて?北海道余市

夢の地を求めて?北海道余市

dscf0030 1934(昭和9)年、寿屋に入社して10年が経った・・・。本格ウイスキーはなんとか軌道に乗るようになった・・・。

竹鶴は、契約で世話になった寿屋を退社し、当初から希望していたスコットランドに気候風土がよく似た北海道余市でのウヰスキー造りを目指すことを決意します。資金は十分というわけではありませんでしたが、政孝のウイスキーづくりの理想に理解を示し応援してくれる大阪時代の会社社長、資産家、留学時代に知り合った柳沢保恵伯爵らの人たちがいました。とりあえず資本金十万円の会社を創ることを決めました。また、イギリス留学の際に大阪港で見送ってくれた大日本麦酒(株)(現アサヒビール(株)とサッポロビール(株))の山本為三郎会長など、彼には幸いサポーターが多かったのでした。

 

masataka この年の7月、かねてウイスキーづくりに絶好の地と考えていた北海道余市に、大日本果汁株式会社を設立しました。余市は積丹半島の付け根にあり、オゾンをたっぷり含んだ空気、草炭(ピート)層を通り抜けた清冽な水、日本海側特有の湿度?ウイスキーづくりのための立地条件として申し分ありませんでした。また余市は日本最初のリンゴ産地であり、ウイスキーづくりが軌道に乗るまでの間は、ジュースの製造販売経済面で支えになってくれると思ったのです。

先に単身余市に竹鶴は住んでいました。十月、工場を建て「余市リンゴジュース」を生産開始。当時の住友銀行から百万円の融資を受けて、ウヰスキー造りの準備にかかりました。社名は「大日本果汁株式会社」としました。当時は何でも「大日本」と名付ける風潮があり、大日本麦酒(現在のアサヒビール、サッポロビールの前身)のように大きくなろうという希望もありました。

 

rita4 リタは一日も早く政孝が北海道に呼び寄せてくれることを願って、鎌倉で寂しい日々を送っていました。翌年9月、ようやく、待ちに待った政孝からの連絡を受けて、リタは余市駅に降り立ちました。竹鶴をはじめ社員が迎える中、タラップを降りるリタを政孝がエスコートの手を差し出す…。久しぶりに触れる政孝の手をリタは以前にも増してたくましく感じました。

開口一番、

「マッサン?!来ましたで?♪

ミナサン オーキニ。ドウゾ、ヨロシュウオネガイシマス。」

出迎えの人たちにリタははっきり挨拶しました。歌うようなその響きは、余市ではめったに聞くことのない大阪弁でした。(マサタカさんは言いにくいのでマッサンと呼んでいた。)

こうして、日本初の本格ウヰスキーづくりをめざす政孝とリタの、ニッカウヰスキーが出発しました。

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