竹鶴リタ物語5 失意と回復

 

yamazaki
Kotobuki-ya Yamazaki Distillery

鳥井は三顧の礼で迎え、竹鶴は寿屋に入社します。
「やっと本物のウイスキーがつくれる。忙しくなるぞ。」
竹鶴の弾んだ声に、リタは思わず微笑んでいました。

竹鶴の最初の仕事は工場用地の選定でした。スコットランドに気候風土がよく似た北海道を推薦しましたが、当時としては東京や大阪などの大消費地に遠すぎるという鳥井の意見で、候補であった大阪と京都の境に位置する山崎に決まりました。
山崎は山城と摂津の国境に位置する交通の要所で、天王山の合戦でも知られます。千利休が水を求めたとされる名水が湧き出る山麓でもあり、水温が異なる桂川、淀川、宇治川の3つの川が合流するため霧の立ちこめる地です。山崎工場の設計から日本で初めてのポットスティル蒸留器の設計に至るまで、誰も未知である本格ウイスキー。彼は学んできたノートを頼りにして、工場長としての責任と本格ウイスキーが造ることができることで張り切っていました。工場の背後の中腹に建てられた洋風住宅にリタと政孝は住んでいました。ところが大変な問題が生じていたのです。これまでのように日本における蔵の醸造した酒にそのまま税金をかけられたら、ウイスキーのように製品化するのに何年もかかり、揮発によって目減りしていく酒にとってたまったものではありません。スコットランドでは最低8年は蔵から持ち出すことは政府が禁止していて、その倉庫の鍵は政府役人に預けられ、蔵出しの際に課税されているからです。竹鶴は地元大阪の税務署に酒税法の変更を嘆願し、その努力によってついに長く続いてきた「造石税」方式から、現在でも続いている蔵から出荷する時に課税する「庫出税」方式になったのです。

yokohama
Kotobuki-ya Yokohama Beer Brewery

長期的な資金繰りが必要なウイスキー造り。できるだけ早くに発売を開始したい鳥井社長に対してあと数年、せめてあと1年待った欲しいと嘆願した中で、当時としては十分熟成年数を経た本格ウイスキーはまだなく、それに日本人にスモーキーなスコッチタイプの味は、まだ馴染みにくいという判断で、ついに日本最初の本格ウイスキー、「白札サントリー(現在サントリーホワイトとして名前は存続)」を発売しました。続いて買いやすい価格の赤札サントリー(サントリーレッド)を発売。

やがて寿屋は洋酒メーカーとして成長し、横浜のビール工場を買収し、竹鶴はそのビール工場長も兼任となりリタさんともに山崎から鎌倉へ引っ越し、、新幹線もない当時、横浜と山崎を列車で東奔西走していました。そんな中、母が亡くなりました。激務に就いていた竹鶴は、母の臨終に間に合わなかったのです。そして、重い心で横浜に戻った政孝は、信じられない知らせを受けることになります。自分が拡張のため設計し直していた横浜工場の売却が決定したという知らせでした。

工場長の自分にも知らされないまま、高く売却するための戦略とはいえ、このときほど自分が一介の技師に過ぎない悲哀を感じたことはありませんでした。

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