竹鶴リタ物語4 期待と不安

横浜桟橋 期待と不安 Despair and Recovery

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1月に結婚してからもタケツルは、ウイスキーづくりの知識や技術はもちろん、その“こころ”を修得するため、帰国の途につく直前まで寸暇を惜しんで学び続けていました。そのことは妻としての自分が、他の誰よりもよく知っている。ふたりしてグラスゴーを離れ、キャンベルタウンに赴いたのもそのためでした。

キャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所はホワイト・ホースで有名なマッキー社の主要工場でした。この地で竹鶴はスコットランド留学の総仕上げに励みました。

rita7 リタは部屋で読書などをしながら、夜遅い夫の帰りを待ちました。帰宅後も竹鶴はウイスキーの製法、設備、職工の賃金にいたるまで、ノートづくりに余念がありません。リタは邪魔にならないように、静かに本のページをめくり続けます。ときおり英語の読解などで夫の手助けをすることもあり、リタはそんな時ささやかな幸せを感じました。

リタを伴い、4年間のグラスゴー大学と各地での蒸留所の研修を終えて意気揚々と帰国の途に着きます。岐路は二人の新婚旅行となりました。

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1920(大正9)年、秋も深まった11月、横浜港大桟橋に日本郵船の客船・伏見丸が接岸。
リタにとって、初めて見る日本。この国で夫とともに、夫の夢であるウイスキーづくりのロマンとともに生きる。どんな生活が待っているのか・・・。リタは多くの緊張を隠せませんでした。

東洋の島国といわれる日本で、故国スコットランドの伝統に従った本格的ウイスキーをつくる・・・。
夫とともに、この大きな夢を実現するために、リタはいま日本の土を踏みしめたのでした。

大阪・山崎・鎌倉時代? 失意と回復

tezukayama リタに寂しい思いをかけたくないと、当時は関西で外国人も多い高級住宅地であった大阪帝塚山に家を借り、摂津酒造に再び通い始めました。

ところが、スコットランド出発前とは事態は大きく変わっていました。第一次世界大戦後の大正大恐慌によってウイスキー製造計画は棚上げにされてしまっていました。銀行破綻、企業倒産などの状況下では、製品化できるまでに少なくとも3年も5年もかかり莫大な資金を寝かしておくような事業に着手することは不況下にはとてもできませんでした。阿部社長も本格ウヰスキー造りを断念せずにはいられなかったのでした。

「何のために自分は、スコットランドで寝食を忘れてまで、ウヰスキー造りを学んできたのか…」・・・。
失意と苦悩。1922(大正11)年、ついに同社を退社しました。

◇ ◇ ◇

rita3 人生で初めてお酒に関係のないいわば浪人生活の1年間の日々を過ごすこととなりました。桃山学院中学での化学の臨時講師の職にありつき化学を教えていました。リタは帝塚山学院でピアノや英語の教師をして過ごしていました。リタは少しでも早く日本に馴染もうと熱心に日本の習慣や日本語を学びました。

そうして翌1923年の春、竹鶴家に思いもよらぬ来客がありました。寿屋(現サントリー)の社長、鳥井信治郎だったのです。順調にいっている薬商経営の中でも、赤玉ポートワインが大成功しており、本格ウイスキーを日本で造りたいと計画していました。スコットランドに技師を打診したところ、ウイスキーの権威ムーア博士に「日本にはミスター・タケツルというスコッチを知っている適任者がいるはずだ。」と答えたのです。

「竹鶴君、(摂津酒造の)君だったのか!」

こうして二人は運命的な再会を果たしました。日本で本格ウイスキーや洋酒を製造するための男同士が、大阪で再会し結集した瞬間です。

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