第一号ウイスキーの誕生?20年の結晶

(現在は使用されていない初代のポットスティル(左奥から3番目)。ここから始まった。)

軌道に乗るまでの支えにと発売したリンゴ果汁100%ジュースは、1本に約5個分の果汁をコンクしてあり栄養満点で、北海道のめぼしい病院で使用してもらえるまでにはなったが、当時としてはラムネやサイダーの時代で、一般の人の嗜好には合わず、値段も高かったのです。

リタが到着したその年の暮れになって、ようやく1基の単式蒸留器(ポットスティル)が寿屋山崎蒸留所のポットスチルを依頼したのと同じ大阪の製鉄所から余市に届けられました。ウイスキーは初留と再留の2度の蒸留が必要だが、資金のゆとりがなかったので1基のみの発注だった…。能率は悪いがウイスキーは造れる。それにリンゴからアップルブランデーも造れるではないか・・・。

問題は設備ではない、情熱だと竹鶴は自分にも社員にも語り聞かせました。

1936(昭和11)年の秋から、待ちに待ったウイスキーの蒸留に入った。別居中の鎌倉での味気ない生活。それを思えば苦境にはあったがいきいきと働く政孝を見て、リタは心から幸福を感じた。愛する者とともにいられないことを思えば、どんな苦労があっても、リタと政孝にとって、余市での生活はかけがえのないものとなっていました。

 

リタは日本料理を苦にしませんでした。政孝は時折社員を工場敷地内の自宅に招きましたが、社員を感動させたのは、リタの作った漬物や塩辛でした。日本ではイカの塩辛は筋にそって縦に刻む。リタは筋を切断するように横に


細かく刻んだ。そのため柔らかく筋が口に残らないのである。リタは日本の伝統を大切にしつつ、西洋の合理精神を良く調和させていました。
「リタ、君の塩辛はほんとうに一級品だ」政孝にこういわれて、リタは嬉しそうに笑います。思えば来日以来15年の歳月が過ぎていました。

 

 

自宅の居間を再現した展示館のコーナー

1939年には、初年度のウイスキーが4年目の眠りに、政孝は、慎重に原酒のバッティング(混合)を繰り返していました。「あと1年、できれば後数年眠らせたい…。」

しかし1937(昭和12)年に日中戦争が勃発し、戦火の拡大による価格統制と配給制の時代に突入…。(機を逸すれば、永久に発売を逃してしまう…。)

1940(昭和15)年の秋、政孝はモルトの香りをきかせた原酒をたっぷり使い、可能な限り重厚な気品をたたえたウイスキーに仕上げ、ギザギザの線の入った角瓶、第一号の「ニッカウヰスキー」と「ニッカブランデー」をようやく発売しました。馬車で出荷されるその函を、政孝と全従業員は並んで見送りました。(リタとともにスコットランド留学から帰国して20年。その歳月の結晶がここにある。)

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